霧ヶ峰には、踊場湿原近くの「ジャコッパラ遺跡」、「池のくるみ遺跡」、旧御射山神社近くの「八島遺跡」、その他「物見岩遺跡」や「雪不知遺跡」など、今から約3万年~1万年前の旧石器時代の遺跡が存在し、黒曜石を用いた石器が出土され、黒曜石文化の中心地であったと言われています。
平安時代から鎌倉時代〜江戸時代
中世になると、諏訪大社の「御射山祭」が行われる風の祀(かぜのほうり)とも呼ばれる祈りの場でした。全国から武士達が集い、御狩の神事や笠懸(かさがけ)などの競技に参加したそうです。江戸時代には富士山、八ヶ岳を仰ぎ見る信州諏訪高島藩の御狩り場として、長らく神聖な場所でした。
明治・昭和初期〜現在
昭和にはいると、牧草地として地元牧野組合の管理地でした。当時は牛、馬が重要な資産であり牧草を生育する貴重な場所でした。
唐松の植林が盛んとなり、建材や薪燃料をこの場所に求めました。池のくるみにスキー場が開発され10数軒の山小屋や売店ができ、霧ヶ峰グライダー研究会が設立されるなど、霧ヶ峰と人々の関わりは急速に深まっていくことになります。
戦後になると、開発がさらに進み、強清水までのバス路線が開通。強清水スキー場に木柱リフトも導入され、利用者も一段と増えました。夏もキャンプや林間学校が開校され多くの子供達でにぎわうようになり、シンボルの霧鐘塔も建設されました。またビーナスラインも開通し霧ヶ峰は諏訪の観光にとって貴重な高原として現在に至っています。